2011年9月24日土曜日

参禅記:今を生きる(Live now)

先月一時帰国した時に、良い期待だから禅寺に一週間参禅してきた。

禅のコンセプトは「今を生きる」。今を生きることにより、過去の出来事や未来の心配事から解放され、自由になれる。本当の意味で自由になってみたいと思ったのが参禅の理由です。僕の経歴を知っている人は、僕が「今を行きたい」とか、「自由になりたい」とか言っていると、「あなたほど自由に行きている人はなかなかいないですよ」と言われる。しかし、現実は、いままで真に今を生きている時は殆ど無かった。多くの時間を、過去の失敗や成功か、未だ起こっていない期待や心配に、心を奪われている。

禅寺の一週間の生活は、「只座り、只歩き、只食べる」。坐禅を組む必要もなく、眠たくなれば寝て、お腹が空いたら食べる。「只やる」とはやっている事自体を考えずに、行動を頭の中で言葉に置き換えずに、その瞬間、瞬間に集中する。座って、息を吸う事に集中して、息を吐く時には、吐く事に集中して、息を吸っていたことに心をとらわれない。息を吐いていた時には、息を吸っていた事は既に存在していない。瞬間、瞬間に集中することにより、今を生きる事になり、他の存在しない、過去や未来事から自由になる。


非常にシンプルな事だが、実践するのはなかなかうまくいかない。禅寺に居たときは、必死で「今を生きるんだ!、吸って!吐いて!吸って!吐いて!」と力を入れっぱなし、それでも、雑念が次から次に頭に入ってくる。正直思ったように進まず、悟りを開くには程遠い生活でした。しかし、一週間は有意義で、寺を降りて世間に出るのが怖かったぐらい、心が穏やかになる時間でした。


あれから1ヶ月、すべての事に集中して、禅を行っているが、未だに雑念が入りっぱなし。しかし、少しは進展があったように思える。例えば、食事をする時、「一咬み、一咬み」に只集中し、味を味のまま、好きや嫌い、甘いや辛い等の言葉に置き換えないことにより、本当の味がわかる事がある時がある。

それから、自由になる、今を生きる、息を吸う吐くと頑張っていたが、息は自然に吸って吐いているわけだし、今しかそもそも存在しないわけだし、もともと皆自由であるはずであると思うようになってきた。しかし、未だに雑念めちゃくちゃ入っているわけなのですが。



集中するのには、踏ん張る必要があるのですが、「禅って普通の事なんだ」って、肩の力が抜けたのは、禅のコンセプトが英語ではMindfullnessだと気付いたからだと思います。「頭で考えるんじゃない」と老師様に怒られそうですが、ヨガの瞑想がDeep relaxで、禅の集中がMindfullnessだと分かったら、なんか急に瞑想や禅が普通の事に思えるようになりました。そして、僕が禅にいだいていた神秘性や崇高さが無くなって、自然に禅に向かえるようになりました。だからといって、禅の素晴らしさは変わらず、僕の禅に取り付いていた無駄を捨てることができただけだと思います。

何千年も前に此れを見つけて、今に伝えているお釈迦さまはすごいなと改めましておもいます。これからも、普段の生活に禅を取り入れて、「今」、「今」、「今」と生きていこうと思います。